『密謀』 -藤沢周平の直江兼続-
藤沢周平の『密謀』は数少ない直江兼続関連の書籍の中でも、兼続ファンの間で人気の高い作品です。藤沢作品は『蝉しぐれ』『用心棒日月抄」』などそこそこの数を読んできた私ですが、今回初めて『密謀』を読みました。率直な感想としてはとても面白かったです。恐らく直江兼続を主人公とした作品の中では、屈指の出来栄えであることは間違いないと思います。
ただ、ケチをつけるつもりは毛頭ないのですが、同時に「直江兼続」という人物が何故今までそれほど小説やドラマなどの題材として取り上げられてこなかったのか、ということもなんとなくわかったような気がしました。
直江兼続は非凡な才能を持った名将であったことは疑いありません。20歳そこそこでいくら幼い頃から近習として景勝に仕え、信頼を勝ち得ていたとしても、ただそれだけでは一国の家老にはなれません。尋常ならざる才能あればこそのことなのでしょう。それは間違いありません。ただ・・・・この『密謀』を読み終えてすぐ思ったことは、確かにストーリーの展開は非常に面白かったのですが、「直江兼続という1人の男に魅力を感じることが出来なかった」のです。もっと言えば「兼続に感情移入できなかった」。何故だろう?と思いました。で、あーだこーだと色々と考えてみたところ、「兼続に主役としての個性がない」これが一番の問題ではなかろうか、と。誤解の無いように何度も言いますが、兼続は大変優秀な武将です。彼の辿った道をざっと振り返ってみると・・・
5.6歳で景勝の近習として寺に入る→寺で修行・景勝と信頼関係強める→御館の乱で頭角現す→家老に就任→直江家に養子入り→夫婦仲円満→対織田・対新発田で諸々の活躍→上洛後、秀吉に超気に入られる→山城守拝受、兼続名義で30万石貰う・・・・・
とまぁこんな感じです。彼の前半生だけ見ても、「東大出のエリート官僚が進むべき理想的コース」を地で行っているようです。結構な「薔薇色の人生
」じゃありませんか?そんでもって身長は6尺(180cmくらい)の美丈夫、漢詩が得意で読書好き、教養もあります・・・・見事なまでの『出来杉君』です。素晴らしいです。これだけ完璧であるからこそ若輩の身ながら上杉300万石の家宰の一切を取り仕切ることが出来たのです。ですがぁ!この「完璧さ」が逆に「キャラの個性を無くしてしまった」とも言えるわけです。要するに「優等生キャラは扱いヅライ」という発想と同じです。あんまりに完璧すぎると見てる側とするとかえって別次元の人間に見えて、親近感を抱けなくしてしまいます。人によっては「嫌味」に見えるかもしれません。例えば井上靖版『風林火山』の山本勘助なんかは、兵法の才能が大いにありながらも身体的ハンデ故に周囲に認められず、長く不遇を囲い、仕官したらしたで主君の晴信とその側室由布姫とその子勝頼にのみ盲目的な愛情と忠誠を誓います。軍師でありながらそういう視野の狭いところが勘助の「欠点」であり、我々はそれを愚かと思いつつも、同時に決して突き放せない愛おしさも感じるのです。また、伊達政宗は父親を殺し、母に疎まれ、弟を殺し・・・という壮絶なエピソードがあり、それだけでも彼が尋常ならざる人生を歩み、その度に苦しんできたはずだ、と現代の我々にもそこそこ彼の生き様を想像することが出来ます。
ところがどっこい
兼続にはそういう人間的な弱さを感じさせる外的要因が無いんです。身体的なハンデがあるわけでもなく、かといって不遇であったわけでもない。親兄弟と骨肉の争いもなければ、自身の家庭の内情も決して悪くない。小さい頃から才能を認められ、割合トントン拍子に出世して、そんでもって権力に奢ることなく職務を全うした・・・・絵に描いたような優等生家臣。それはそれで本当に素晴らしいことですが、あまりにソツが無さ過ぎて逆に『可愛げが無い』。『密謀』の兼続は終始「可愛げがなかった
」
別に可愛げが無くたって全然いいんですが、それを抜きにしても、なんか『密謀』の兼続は人間的温かみが薄かった。他の藤沢作品に比べると、主人公の人物像が突出していなかったような気がしました。どっちかというとオリキャラの牧清四郎の方が生き生きと動いていたような・・・。多分それは「史実」という大きな制約の中でキャラクターを動かさなくてはいけない歴史小説の掟が、藤沢先生を苦しめ、兼続というキャラを自由に描ききれなかったからかもしれません。勘助のように実在したかもわからないような人物ならばかなり創作を加えても良いでしょうが、残念ながら兼続は勘助よりもずっと実在性が高く、しかも勘助よりも大物でした。だからあっちこっち自由に出かけさせることは出来ません。かといって兼続に政宗程の暗い過去があるかというとそうでもない。御館の乱や魚津城攻防戦にしても戦国の世では「よくあるエピソード」で、何も上杉だけが特別じゃありません。直江状や閻魔大王の手紙にしても、見方によれば「逆ギレする危ない人」と捉えかねません。(閻魔大王の話なんか冷静に考えるとかなり無茶な行動ですし
)。結局、
非凡過ぎる才能を持ち合わせながら、その経歴が戦国時代においては意外と「平凡」なことが、個性を必要とする物語の主人公にはネックとなっているのではないか・・・・
これが兼続が主人公に成り得ない要因の一つではなかろうかと推測いたしました。優れた武将が必ずしもドラマや小説の題材にふさわしいというわけではない、兼続は正にその典型ではないでしょうか。現に私のお勧め『義風堂々』は兼続の若かりし頃を「破天荒な傾奇者」キャラにしています。これが『花の慶次』の前田慶次みたいでどうなのそれって!?と批判する人もいるんですが、これも結局そこまで強烈なキャラ付けをしないと兼続を主人公として輝かせることが難しいからなんだと思います。
直江兼続は下手な作り手が軽い気持ちで手を出すとエライ目にあうウルトラD難度のキャラクターです。彼を光り輝かせるにはどうすれば良いか。私は主役ではなく、2番手・3番手の脇役に甘んじた方がその魅力を発揮できるんじゃないかなぁと思います。なにせ彼は組織のNo2です。もともと主役である必要なんてないんです。片倉小十郎が全国にその魅力を振り撒いたのは政宗という主役がいたからです。政宗の壮絶な人生を描く中で、常に側で支え、忠義を尽くす姿、それを政宗という媒体を通して見たからこそ私達は彼の素晴らしさが理解できたのです。政宗という太陽があってこそ小十郎は光り輝く、正に『蒼き月影の如く』(懐かしいなぁ
)。だから兼続も「味のある脇役」としてだれかの光を反射することで初めて燦然と輝くキャラになるんではないでしょうか![]()
『天地人』の兼続は残念ながら皆さん周知の如く、下手な作り手が軽い気持ちで手を付けた最悪のパターンとなってしまいました。『密謀』は確かに歴史のうねりの中で兼続の個性が埋没してしまった印象もあります。しかし!藤沢先生は「優れた作り手」でした。その代わりに、戦国乱世の殺伐とした様相、権力者達の政治的駆け引きの妙、ストーリー展開の巧みさ、義のために意地を通す上杉侍の心意気、そしてその義が抗えぬ歴史の流れによって終焉を迎える寂寥感、そういう景色を作品の中に存分に込めることに成功しています。それだけで十分この作品は「名作」足りえると思います。私自身は兼続に最後までイマイチ感情移入出来ませなんだが、それでも兼続が家康に降伏する事を諸将に説得するシーンは、一つの時代が終わることへの寂寞の念をヒシと感ずることが出来ました。最後はその兼続渾身の名台詞で締めたいと思います。
『武者は名を惜しむべきである。しかしながら家の名を残すために、時には堪えがたい恥をしのばねばならぬこともある。それも武者の道である。』
『わが胸の内も諸将と同じことよ。やる方ない無念の思いは、なお胸にあふれてやまぬ。しかしながら天下の大勢は、すでに決したのである。殿は忍ぼうと仰せられた。われらも殿にしたがって堪えねばならぬ』
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